2008/01/22
仕事が早めに一段落した日は、今日こそ早く寝ようと思ってベッドにもぐりこみ電気を消す。突如眼前に広がる漆黒の闇。疲れ目のせいかその闇が深く感じる。
目を閉じて、出来るだけ無心になり眠ることに神経を集中させる。
だがそれは多くの場合うまくいかない。
しばらくしてもΘ派が低いままの状態が続いているのに気づき、覚醒しきった脳は知らず知らずの内にさまざまな思考をめぐらせる。
その日、人に会っていれば、「ああ、あんなこと言わなければよかった」とか、「あの時の言葉はこういう意味だったのに、僕は誤解しておかしな返事をしてしまった・・・きっと冷笑されたのだろうな・・・」とか、まあネガティブなことばかり考える。結論など出ない。いつだって堂々巡りだ。
目の前に広がる闇の深さに比例するように、思考は心の深い部分を遠慮なく掘り巡らせる。
僕には人間がわからない・・・。皆なにを考えて生きているのだろう?何を目標にして生きているのだろう?例えば同年代。仕事をして、プライベートには恋人と一日を過ごすことで疲れを癒すのかもしれない。やがて誰かこの人という人を見つけて結婚、ささやかながらも披露宴。久しぶりに会う旧友の声援。今が人生至福の時、これからの長い道のりを考えて質素倹約。派手さは無いが美しく愛する妻とともに日々を送り、時を待たずして妊娠出産、俺にも家族ができたと赤ん坊の息子を抱き、希望と狼狽の中、必死に仕事をして家族を養い、やがて子供達は大きくなって自主独立、そのころになると財も蓄えるれて家をあたらしくし、孫の誕生に喜び、好々爺は目じりを下げて幼子を猫かわいがり。息子も真面目で長ずるに及んで立身出世。将来へ不安は微塵も無く、みんなうまくまとまる。多少のトラブルも家族の力で乗り越えてきた。それに愛する妻と連れ添ってきた長い年月が自信につながり、一族安泰、無病息災、輸入雑貨屋で見つけた洒落たロッキングチェアに腰掛けながら庭ではしりまわる孫達をながめる日々。不意に見つかる不治の病。しかしそのころになると最新鋭の医療器具によってさしたる苦痛を味わうこともなく、一家全員、一族全員に見守られながら、最愛の妻の歳を取った手をさすり、「いい人生だったよ」と一言。すすり泣きが響く病室。老人には薄れ行く意識の中で様々な人生の軌跡が脳裏をめぐり、平均寿命を超えて立派で幸せな大往生。これが一般的な人の持つ「生きてゆく目標」ならば、僕はそんな生き方が僕自身を幸せにするとは全く思っていない。
僕は所謂「家庭の幸福」というようなもののために有限の人生を消費したくないと考えている。もっと別な、もっと有意義と僕が感じるものに対して命を懸けて生きたい。「家庭の幸福」を守ろうとするその姿は立派だけれど、残念ながら、それは身内に対してのみだけだ。また、社会が不安定になっている要素は以外にも「嫁さんにもっといい暮らしをさせてやりたかったから」とか「子供をよりよい学校にいれたかったから」なんて理由もきかされており、大物政治家に至っては自分可愛い嫁さんつれてゴルフ三昧にするために国民の血税を使いたい放題。彼の脳裏にはこのような思惑が巡らされていたのではなかろうか。「わが家庭が安泰ならばそれでよし。世はなべてこともなし」なんというエゴイズム。
が、そういったエゴが社会を渦巻いている世の中においては、汚職政治家への個人攻撃もなんだか虚しく思える。「なんだ、みんな一緒じゃねぇか」という部分に落ち着く。
例えば僕は「親バカ」という状態の両親の姿は、人間の最も醜い姿のひとつだと思っている。「我が子が可愛い」結構だ。しかし「我が子だけが可愛い」となるとちょっと待て。電車の中で奇声を上げて席の上で飛び跳ねる子供の姿、なるほど子供らしくて元気良ろしくて愛らしい、と貴方の目には映るかもしれないが、貴方以外の人からみたその子は悪鬼の如く不愉快で有害な存在だ。その社会秩序を大きく乱す愚行を親の権限でもって直ちに正したまえ!と思っても当の親は馬耳東風。ファッション雑誌をペラペラ捲っている。
こんなステレオタイプな例を出しても言いたいことは伝わらない気がする。
僕は成人になっている子供の面倒を親身になって見ている親もそれと変わらぬほどの醜悪さを感じている。親は子供に金を使うな。子供は親の金を当てにするな。若い頃は金が無い。それが当たり前なのだ。子供は苦労しろ。親はそれを木の上にでも立って眺めていろ。
以前、もうずっと前だが、会社員時代。大卒の新入社員が入ってきて、僕の後輩となった。恐ろしく物覚えの悪い男で僕は何度も怒髪天を衝いた。仕事のできない男が嫌いなのである。その男が「俺、最近車買ったんスよ」という。そりゃよかったね。と話を聞いていると、「僕、自分の金で買ったんスよ!」となんだか誇らしげに言う。はて?自分の車を自分で買う。それはあたりまえのことのように僕には思えるが、なにか特別なのか?と思いさらに話を聞くと、どうやら友達はみんな親に買ってもらっているらしく、そんな中、子供のころからの貯金(落とし玉らしい)で買った俺は偉い、というような論調であることが分かった。
僕は唖然とした。そうしてその男をますます嫌いになった。
多くの親は子供かわいさに子供の「車にのりたい」という欲求を叶えてやろうと思うのだろう。買ってやると子供は喜び、親に感謝。感謝された親もまんざらではない。「イサムちゃん、よかったわね。事故には気をつけるのよ」ととっくに成人すぎた息子に笑顔でささやき、美しい親子の交流、仲良し家族。我が家の家庭の円満っぷりに双方満足といったところか。
そういうところが醜悪だと僕は思うのだ。
人間は一人で生きていかなければならない。生まれた時も一人だし、死ぬときも一人だ。自主自立のための訓練をするために生まれ出でてから20歳までの月日があるのだ。自主自立の精神は20歳になったと同時に心に自動的に芽生えるものではない。自立しなければならない状況に追い込まれて初めて鍛えられる精神なのだ。その成長の機会を、親が奪ってどうする。人間を猫かわいがりして得られるものなど何一つ無い。可愛いのなら、突き放せ。支援をするな。自分で歩かせろ。それが出来ない所謂「駄目な大人」を量産している自覚とその罪の重さを感じろ。今、社会が不安定で、妙な子供が増え、妙な事件が多発している世の中に、少しでも「健全さ」を取り戻したいと思えるのなら、まずは「親バカ」精神を完全に封印するところから始めなければならない。
さりとて、こうすれば家庭は幸福というような定理があるでもない。そのことで親と子が対立してより不幸な結果を招くやもしれぬ。それを予感しているから「親バカ」にならねばならぬという人たちもいるかもしれない。
なんともはや、昔「家庭の幸福は諸悪の本」と断言する作家もいたが、単に虚無的思想、冷笑的思想によって得られた結論ではないのかもしれない。首肯せざるを得ない現実が眼前に広まっているではないか。
僕はそんなところに人生の目標を置きたくない。
もっと別な、もっと有意義と僕が感じるものに対して命を懸けて生きたい。
それは何か。
・・・
それはやはり絵だ。
僕にはそれしか無いし、それさえあれば僕は有意義な人生が送れると予感している。
僕には妻は居ないが、描いた絵たちは僕の子供だ。
それらを創出しつづけることで、誰かが幸せを感じたり、誰かを慰めたり、誰かが一時でも、世の喧騒を忘れて心を癒してくれさえすれば僕はそれが幸せだ。
経済的に裕福にならなくてもいい。大御所と呼ばれる業界の著名な人たちに認められなくてもいい。権威ある賞を頂かなくてもいい。そんなことに僕はほとんど何の価値を感じない。僕は僕ができることをただ、できるまでして、そうして、生き飽きたらそこで終わりにするつもりだ。認知症の祖母たちの現状を見ていると、天寿をまっとうすることがかならずしも善ではないと思える。だから僕の死は、おそらく僕が決定づけたものになるだろう。批判する者もいるだろうが、生きてくる時代や環境を人は選択できないのだから、死ぬその瞬間くらいは選択できてもいいではないか、と僕は考える。諦めや絶望ではない。これが僕にとって自然な死だ。その前の日まで、人を喜ばせることを考えながら絵を描いていると思う。きっと、それが今の僕が考えうる最高の人生の送り方なのだろう。
と、極めて稚拙な結論ともいえないなげやりな結論を導き出したところで脳は疲れ、Θ派は高く安定し、いざ睡眠に入ろうとするとき、枕元でささやきかける男の声がする。
「本当に、そうか?」
僕は、はっ!として振り向く、男の顔は見えないが口元がいやらしく笑っている。これは夢だろうか。しかしそんなビジョンよりも驚くのは男の声が僕の声そのものだったことだ。
この短い言葉には折角今行き着いた結論の根幹を揺るがす力がある。お前は本当にそんなに人の幸せを望んで生きているのか?金は欲しくないのか?女は欲しくないのか?デカい家を見て「いいなぁ」と思ったことはないのか?自分の中にある欲望を隠すなよ。奇麗事だけじゃ、うそ臭くなるばかりだぜ。お前はうそつきで、自分自身をも騙そうとしているだけなのさ。認めちまえよ、その欲望の、限りない、ほとばしりを!
肯定したものが不安になる。否定したものも不安になる。家庭の幸福をエゴだと断定し、批判したが、なら僕の偏狭な人生観にエゴはないのか?自殺を肯定するような発言をしておきながら「人のため」なんていうのも立派なエゴだ。結局、どう生きるべきか、なんてのは分かりはしない。分かっているのは、あと3時間後に太陽が上って、次の日が始まる。そうして僕は仕事にとりかかる。それだけだ。肯定も否定も、思想も思惑も、結果的には不安だけが残るのだ。ああ・・・・僕はやっぱり人間がわからない。僕は、僕自身さえ分かっていない。
こんな風に、ベッドシーツをくしゃくしゃにして身悶えしているうちに、眠りにつく。
なんてことはない。いつも通りの「眠れぬ夜に思うこと」。