2010/09/27
あんまり、人の同意を得られないかもしれない話なんですが、
日頃から思ってることをちょっと書いてみます。
よく、人生相談とかにこういうの見かけるんですよ。
「父は仕事ばかり優先し、家庭を顧みず、私は子供のころ父とロクに遊んだ記憶もありません・・・」みたいなことを父親に対する恨み節で語る人。
これがちょっと僕の感覚では
理解不能なんですね。
つまり、あなたの言いたいことは
「私は父の子として生まれたのだから、父は私を大切にすべきだったし、やさしくすべきだった」
ということでしょうか?と思うわけです。
こう思ってないと、「やさしくされなかった」ことが「恨み節」になるハズないと感じるからです。
けど、
これって凄く変じゃないでしょうか。なんで「
子供として生まれた」というだけで
「
やさしくされて当然」と思えるんでしょうね。なんていうか、すごく、エラソウに見えます。
なぜなら、親には「子供を育てる義務」はあっても「やさしくしなければならない義務」など無いからです。
そしてその父は「子供にやさしくなく、家庭を顧みない父」だったというだけの話で、
子供は「この人はこういう人なんだ」という目で父を見ればいいだけの話だと感じます。
つまり、この子供の「恨み節」は、「自分が理想とする父と現実の父は違う。それがムカつく。キー!」
と言ってるだけなのです。単なるワガママです。
父を恨むのであれば、実害を被った場合でないと変だと思います。
父から暴力を受けた。父に借金を押し付けられた。父になんらかのカタチで人権を侵害された。
などが「実害」じゃないでしょうかね。
こういう事実があるなら「恨み節」が出ても已む無しと思うのですが、ただ単に
「やさしくされなかった」というだけで恨み言を言うのは相当オカシイ。
これらの恨み言の根本は「本来受けられるべき愛情を、受けられなかった。ムカつく。キー!」
だと感じるんですが、その「本来受けられるべき愛情」というものがそもそもその人の幻想に過ぎず、
勝手に自分の脳内に創り上げた「
俺ルール」の権利に過ぎないわけで、
それを根拠に父を責めるのは見当違いに思えるわけです。越権行為、とさえ思います。
やさしさを、翼であると考えてみたらどうでしょう。
元から人にやさしくない人間というのがいます。
それは翼を持たない動物だと考えると、飛べないのも無理はないと思いませんか。
亀に「なんで空を飛んでくれないんだ!ちくしょー!」と怒ってもしょうがないでしょう。
もともと飛べない生き物なんだから。
そんなこと言ってる方も、言われてる方もストレスがたまるばかりで極めて不毛です。
逆に翼を持った渡り鳥ならば、自由に羽ばたいて飛べるわけですし、
それで周りの人を幸せな気持ちにさせることもできるでしょうが、
だからといってすべての父に翼を期待してはいけないと思うのです。
「やさしさ」を「情」と言い換えても同じことが言えますね。
世の中には「薄情者!」という罵り言葉がありますが、
こんな言葉で人を罵ったつもりになってはいけないと思います。なぜなら、その人は「情が薄い人」なんだから、仕方ないでしょう。
翼が小さくて飛べないペンギンを罵る人がいたら、その人は変な人でしょう。
生まれたときから情が少ない、という人は確実にいると思います。
それが悪か?と聞かれればNOだと答えるのに、いざ自分に情のない対応をされると
「薄情者」と罵ったりするのは異常です。
生まれた時から身体の一部が無い人に「この○○○!」なんて言う人は居ないでしょう。
なのにこと「情」や「やさしさ」に関してはそういうことを平気で言う人がいる・・・。
よほど「人には情があるのが当たり前」というヌルい環境で生きてきたんだろうなぁと思います。
冒頭のような相談は枚挙に暇がないのですが、これに被害者意識を持つのは間違っていると
感じる理由を述べてきました。
こういう例に関しては個人的にはこう理解したらいいんじゃないかなと提案してみます。
■父が仕事ばかり優先する。
→父はそういう人である。という正しい認識をもつこと。父が働くお蔭で生活できているのであれば
文句を付ける部分ではない。
■父が家庭を顧みない。
→父の家庭像はそういうものだという認識。もし家庭を顧みて欲しいのであれば、仕事に変わる価値を
家族のほうから見出して、父の意識を家庭に向けさせる努力をすればよい。
「
欲しいものがあれば、手に入れる努力をする必要がある」という当たり前の認識を持つこと。
なんの努力もせずに「手に入らない」とキーキー怒るのは幼子のすることである。
■父が子供にやさしくない。
→父は子供に対して「やさしさの翼」を持っていない人間だと正しく認識すること。
飛べない動物に対し、飛ぶことを期待するのはやめよう。つまり、
諦めよう。
自分はこうはなりたくないと思うのだったら、父を反面教師にして気をつければ良し。
親はなくとも子は育つんですから、親に過度な期待をして、勝手に絶望するのはやめたほうがいいよ、
という意見です。どうしても自分の親が人間的に許せないほどの人格の持ち主であるなら、
はじめから居なかったと考えて自分の人生を歩めばいいだけの話であって、
被害者面する必要はどこにもないはず。親の人生は親の人生。自分の人生は自分の人生。
あんまり関係ないものだと思ったほうが良いと思います。
僕の好きな歌に、
「求めないで やさしさなんか 臆病者の 言い訳だから」
という素敵な詞があるんですが、
今の僕の感覚で言うならば、
「求めないで やさしさなんか
卑怯者の 戯言だから」
といったところでしょうか。
自分は人にやさしい人間でありたい、と願うのならば思う存分にその翼を広げて
人に優しく接すれば良いでしょう。
けど、自分は自由に飛び回れるからといって、飛べない動物を悪く言うのはやめたほうがいいし、
「こうあるべき」という自分の希望を人に押し付けたり、「べき論」を振りかざして
被害者でもないのに被害者面するのは単なる卑怯者です。
今回は父と子供というシチュエーションで書きましたが、どんな場合でも基本同じだと思います。
「人にはやさしくされなくて当たり前。人にはなるべくやさしくして当たり前。」
そう考えたほうがいいと思うんですよねー。精神衛生的にも。
以上、「日頃から思う、『やさしくされてない私って被害者』系の人に対する一意見」でした。